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寺内健の経歴プロフィールまとめ!中学高校大学はどこ?

アスリート
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こんにちは~nannanです♪

今日は飛び込みの寺内健選手のお話です。

東京オリンピックの代表にも選出、

1996年アトランタオリンピック
2000年シドニーオリンピック
2004年アテネオリンピック
2008年北京オリンピック
2016年リオデジャネイロオリンピック

に続き6回目のオリンピック代表です。

そんな寺内選手の経歴やプロフィール、そして卒業した中学、高校、大学がどこかについても調べてみました。

まずは簡単プロフィールから。

 

寺内健簡単プロフィール

生年月日:1980年8月7日
出身地:兵庫県宝塚市
最終学歴:甲子園大学大学院心理学部
血液型:A型
身長:170cm
体重:69kg

寺内健経歴

寺内選手が水泳を始めたのはなんと生後7か月!

馬淵良・かの子夫妻が経営するJSS宝塚スイミングスクールでした。

馬淵良:1958年のアジア大会飛込競技10m高飛込み金メダル
馬淵かの子:1954~1974年までのアジア大会にて3m飛板飛込と10m高飛込で計5個のメダルを獲得
※娘は馬淵よしの(ロサンゼルス五輪高飛び込み9位、元タレント・元女優)

元々は競泳選手を目指していた寺内選手でしたがタイムは伸びませんでした。
練習の時に隣のプールに設置してある飛び板で遊んでいたところ、それを見たコーチ(馬淵崇英)から
「上海に飛び込みの合宿に行かないか」
と声を掛けられたのがきっかけで飛び込みに転向。小学校5年生の時でした。

当時寺内選手は身長が140cmなく、かなり小柄でした。
同じ年代で160cmぐらいの子もいる中、競泳ではこの体格ではちょっと太刀打ちできないだろうという思いもあったと話しています。

このコーチとの出会いは大きく、それ以降、二人三脚で練習を積む日々が始まります。

馬淵崇英:中国上海出身、来日から10年の1998年に帰化。娘婿(次女・優佳の夫)は競泳の瀬戸大也。

 

飛込競技を始めて数ヵ月後、小学5年生の2月に「中国に3か月半の合宿に行く」といわれます。

着いた翌日の早朝5時から走り込み。それから11時間みっちりの練習、という日々が3ヵ月半続きました。
そして「これでやっとお母さんに会える」と思った1週間前くらいに「お前だけあと1か月残れ」とコーチに告げられます。

合宿中親へ電話することは禁止されてましたが、合宿の延長が決まったときだけは親に電話をしました。
「帰りたい」と大泣きする寺内選手に母親は「あと1か月やん。3か月半がんばれたんだから大丈夫」と励ましました。

きっと断腸の思いだったことでしょう。

後に母親に「(当時は)今すぐ自分が中国に行って飛込をやめさせて連れて帰る」と思っていたと聞かされたと話しています。

 

中学校時代(宝塚市立光が丘中学校)

寺内選手は宝塚市立光が丘中学校に通っていました。

が、中学時代は、入学式、卒業式、修学旅行、運動会……学校のイベントにはほぼ出ていなかったそうです。

1994年(2年生)に日本選手権の高飛込初優勝史上最年少)!

同年のアジア大会では高飛込4位でした。

 

高校時代(此花学院高等学校)

寺内選手は此花学院高等学校(現・大阪偕星学園高等学校)に進学しました。

1996年夏(1年生)のアトランタオリンピック、高飛込で決勝に進出し10位

1998年1月(2年生)の世界選手権、高飛込5位

1999年7月(3年生)のユニバーシアード、高飛込4位3m飛板飛込銀メダル

 

大学時代(甲子園大学)

甲子園大学人間文化学部人間行動学科に入学後も活躍は続きます。

2000年シドニーオリンピック高飛込5位日本人史上最高位)! 3m飛板飛込8位64年ぶりの入賞)!

2001年7月の世界選手権、3m飛板飛込銅メダル世界選手権の飛込競技で日本初のメダル

2002年2月に膝を手術。

 

大学院時代(甲子園大学院)

大学卒業後は甲子園大学院心理学部に進みました。

2003年7月の世界選手権、3m飛板飛込7位

2004年アテネオリンピック、 3m飛板飛込8位

 

社会人時代~現役引退まで

2005年、JSS宝塚スイミングスクールに入社しました。

2006年アジア大会 3m飛板飛込銅メダル

2007年世界選手権 3m飛板飛込4位

2008年北京オリンピック 3m飛板飛込11位

2009年4月、現役引退を発表し、ミズノに入社します。
今までとは別の角度からスポーツに関わることで、将来的に飛び込みの普及にも貢献できればと考えるように。競泳用の水着企画や営業の仕事など、初めて経験するサラリーマン生活は新鮮で、営業は今までと違う様々な出会いがありました。

 

現役復帰後

2010年8月6日、2012年のロンドン五輪出場を目標に、2011年の国際大会代表選考会で現役復帰することを表明。

復帰のきっかけとなったのは、ミズノの社員として仕事で行った2010年6月の競泳日本選手権で久しぶりに会った北島康介選手のこの一言でした。

「もう一回やらないの?」

当時、北島選手は1年間の休養から復帰したばかり。
50mと100mで2位になってパンパシフィック選手権の代表入りを決めた北島選手が「自分のペースで楽しく競技を続けている」と明るい表情で話しているのを見て、「自分の心がゆらりと動いたように感じた」のです。

実は、あるイベントで飛ぶこととなり、まったくやっていなかったにも関わらず意外にしっかりと飛ぶことができ、「意外といけるもんやな」と感じた直後のことでした。

引退したということで人を介して入れてもらった経緯、経済的な事など色々考えた末、「とりあえずは貯金を切り崩してやるしかない」と覚悟を決め、2010年9月にミズノを退社しました。

すべてを決断した寺内選手は、長年共に戦ってきた馬淵崇英コーチの元へ向かいました。
馬淵コーチは「もう一度やると言ってきたときは嬉しかった」と話しています。

2011年1月にミキハウスへ入社。このご縁は幸運でした。

同年、相模原で開催された代表選考会で3m飛び板飛び込みで2位に入りますが、残念ながら2012年のロンドンオリンピック代表には選出されませんでした。

2016年リオデジャネイロオリンピック 3m飛板飛込20位(予選敗退)

この時、予選で負けてしまった寺内選手をミックスゾーン(取材エリア)で待っていたのは、本来は決勝のみ応援にくるはずだった北島康介さんと柔道の野村忠宏さんでした。
この時のことを寺内選手は「初めて飛込をやり続けてきた中で泣きそうになりました。この競技をやってきて良かったな……と。」と話しています。

 

寺内健・大会成績

2019年 世界水泳(韓国) 3mシンクロ 7位入賞(東京五輪出場権獲得)
2018年 第94回 (2018年度)日本選手権水泳競技大会 3mシンクロナイズド 優勝
第73回 国民体育大会 飛込競技大会 3m飛び板飛び込み 準優勝
アジア大会 ジャカルタ 3mシンクロ 銅メダル
ワールドカップ中国(武漢) 3m飛板飛込み 個人11位 シンクロ9位
カナダGPカルガリー 3m飛板飛込み 個人3位 シンクロ4位
FINAダイビングワールドシリーズ・富士大会 3mシンクロ 銅メダル
2017年 GP大会 オーストラリア 3mシンクロ 銅メダル(寺内・坂井)
第93回日本選手権水泳競技大会 3mシンクロ飛板飛込 優勝  3m板飛込 準優勝
全日本室内選手権 3m飛板飛込 優勝
2016年 第92回日本選手権水泳競技大会 3mシンクロ飛板飛込優勝 3m飛板飛込準優勝
リオデジャネイロ五輪 3m板飛び込み 予選20位
2015年 飛込国際大会派遣選手選考会 3mシンクロ飛板飛込 優勝  3m板飛込 準優勝
第91回日本選手権水泳競技大会 3mシンクロ飛板飛込 優勝
世界水泳 3Mシンクロ 11位
世界選手権 3M 9位(リオ五輪代表枠獲得)
2015年度日本室内選手権飛込競技大会 3M 1位
FINAダイビンググランプリ2015 プエルトリコ大会 男子3m飛板シンクロ 1位
FINAダイビンググランプリ2015 プエルトリコ大会 3M 1位
FINAダイビンググランプリ2015 カナダ大会 3M 7位
2013年 第89回日本選手権水泳競技大会飛込競技 シンクロ3M 1位
第89回日本選手権水泳競技大会飛込競技 3M 1位
2012年 第88回 日本選手権水泳競技大会 飛込競技 3M 1位
2011年 第14回世界水泳選手権大会 3M 14位(準決勝)
2011年度飛込国際大会代表選手選考会 3M 2位
2008年 日本選手権 3M 1位
オリンピック(北京) 3M 11位
ワールドGPアメリカ大会 3M 1位
ワールドGPカナダ大会 3M 3位
ワールドGPファイナル 3M 4位
2007年 日本選手権 3M 1位
世界選手権(メルボルン) 3M 4位
ワールドGPイタリア大会 3M 5位
2006年 日本選手権 3M 1位
ワールドGPアメリカ大会 3M 4位
ワールドGPカナダ大会 3M 4位
アジア大会(ドーハ) 1M 3位
アジア大会(ドーハ) 3M 3位
2004年 日本選手権 3M 1位
オリンピック(アテネ) 3M 8位
ワールドGPアメリカ大会 3M 3位
ワールドGPカナダ大会 3M 1位
ワールドGPファイナル 3M 2位
2003年 日本選手権 3M 1位
世界選手権 3M 7位
ユニバーシアード(韓国) 3M 3位
2001年 日本選手権 3M 1位
日本選手権 10M 1位
世界選手権(福岡) 3M 3位
ユニバーシアード(北京) 3M 3位
東アジア大会(大阪) 3M 1位
2000年 日本選手権 3M 1位
日本選手権 10M 1位
オリンピック(シドニー) 3M 8位
オリンピック(シドニー) 10M 5位
1999年 日本選手権 3M 1位
日本選手権 10M 1位
ユニバーシアード(スペイン) 3M 2位
ユニバーシアード(スペイン) 10M 4位
1998年 日本選手権 3M 1位
日本選手権 10M 1位
世界選手権(パース) 10M 5位
1997年 日本選手権 3M 1位
日本選手権 10M 1位
1996年 日本選手権 10M 1位
オリンピック(アトランタ) 10M 10位
1995年 日本選手権 3M 1位
日本選手権 10M 1位
1994年 日本選手権 10M 1位
アジア大会(広島) 10M 4位

 

親友秘話と寺内選手の思い

長く寺内選手の練習パートナーを務めていてくれた選手がいました。
パートナーだけどほぼ同じ練習をするし合宿にも同行する、今でも寺内選手の親友です。

彼はコーチに「お前はオリンピックには行けない。だけどお前が健と練習することで、健はオリンピックに行くことができる。どうするか?」と言われていたそうです。
その彼が「わかりました」と了承してくれたことで、寺内選手のオリンピックへの道はスタートしています。

当の寺内選手はそんなことは全く知らず、彼の前で「こんな練習イヤやわ」とか、「世界選手権は緊張するから出たない」とか、弱音吐きまくり。
そんな寺内選手を、彼は「そやな」と全部受け止めてくれていました。

ステキな話ですね。
ずっと支えてくれる仲間がいたからこそ今の寺内選手があるのだと感じました。

また、寺内選手は

応援は選手にとって絶大な力を持っています。つねに色々な人とのコミュニケーションを怠らず、「応援したい」と思われるような人間でありたいと思っています。

と話しています。そして、

飛込はまだまだマイナーな競技です。
それは自分も、後輩たちもどこかコンプレックスに感じています。
選手の名前がコールされると上がる大歓声、やがてそれが一気に静まり、まもなく飛び込んだ直後に響く「ザク」っという分厚い音……それが「ノースプラッシュ」。
水しぶきが上がらない技術を身につけたものだけが出せる音です。
その震えるような瞬間をもっと多くの人と共有したい。
僕もその瞬間のためにできることに努力は惜しまないつもりです。

とも。

その努力が実を結ぶよう願っています。

 

また、リオデジャネイロオリンピックの後で柔道の野村忠宏さんからこんな言葉をかけられました。

「オリンピック5大会、それほどの長い間をトップでやり続ける精神力は本当にすごいと思う」

この言葉で、それまで自分が抱えていた「痛み」が解消されました。
自分の中にあった、「参加した大会が多ければ多いほどメダルがないことの苦痛」が払しょくされたと話しています。

 

まとめ

飛込の寺内健選手のお話でした。

中学2年生から日本代表として飛込界をリードし続けてきたのはすごいことだと思います。

そしてその一方で葛藤や苦悩も多かったのではないかと思います。

精神力の強さと周りの支えで、6度目のオリンピックでも活躍を期待しています。

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